イントロダクション
リリラボからこんにちは、倉田 京といいます。
お会いできて嬉しいです!
とりあげるのは、堂島孝平さんの 6AM(シックス・エーエム)です。まずはお聴きください。
なんてスピード感があるのでしょう。堂島さんご自身はこの曲を「高速ポップ」と銘打っています。動き回るベースラインが特徴的です。
今回はその歌詞について、できるだけ一つひとつの言葉の間を、こじ開けては引き伸ばすようにして、読み取っていきたいと考えています。
では、書きますよ。
1A
東京の上空に日の光 日も希望を担って
早朝の街をフワフワって具合に
撫でつけ照らすからなんだか良い匂い
ダイジなこと感じ分けて 抱きしめてたいな
はじめに「東京」があります。その「上空に日の光」という、ニュース番組に出てきそうな光景が歌い出しです。
「今日も希望を担って」あれ? なにかおもしろい言い回しですね。ちょっと聴いた限りでは「希望になって」とも聴こえます。このような絶妙に紛らわしい言い回しはあとでまた出てきます。日の光=希望なのではなく、日の光が何らかの操作的な意思によって希望という役割を与えられているようです。どんな意思でしょうか。
舞台は「早朝の街」です、何が起きるのでしょうね。
「フワフワ」といった擬態語は、音楽と言葉を鮮やかに結びつけます。
触覚(「撫でつけ」)、視覚と温度覚(「照らす」)、嗅覚(「良い匂い」)が次々に出てきます。わあ!
「感じ分けて」について。通常、感じることと分析することは、反対の意味に使われますが、ここでは一緒になっています。この主人公は相当に頭のセンスがいいですよ。
手偏の漢字(「担」「撫」「抱」)があることを覚えておいてください。言葉の部品に着目しておくと、あとでよいことがありますよ。
はじまりのあとに
ここまでお読みくださりありがとうございます。この記事はこのような調子で続きます。それでもよろしければこのままお進みください。
私としましては、堂島さんをより知っていただき、他のリリラボの記事を見ていただければそれで満足でございます。
技法だけザッと見たいという方は、本文中の太文字を拾い読みしてください。
そうそう、この記事の目次はこのようになっています。
- イントロダクション
- 1A
- はじまりのあとに
- 1A’
- 1サビ
- 2A
- 2サビ
- B
- 大サビ
- おわりのまえに
- エンディング
※ここでの解説・分析は、ライター独自の解釈によるものです。アーティストご本人の意向とは異なる場合がございます。ご了承ください!
※修辞学的、言語学的に誤った記述がある可能性があります。すみません・・・発見し次第訂正していきます。
では、続きますよ。
1A’
僕の胸と悲しみ相まって 昨日をぶら下げる
言うなればフラフラとおぼつかないハート 誰かに拾ってもらいたいんだよ
横断歩道 白線をステップでビート刻んで
加速してゴートゥーザ・キミ お迎えに今走ってく
あら、なにか嫌なことがあったのでしょうか。
「僕」の状況が、時間的に展開されます。 ふつうでしたら〈昨日僕は悲しかった〉となりますが、主人公は「僕の胸と悲しみ相まって 昨日をぶら下げる」のです。「悲しみ」と「昨日」を物体のように扱っています(擬物化)。少し俯瞰で昨日の出来事を思い出すことができるようになった、という印象をうけます。
また、前の「抱きしめ」るという動作から「胸」「悲しみ」「昨日」と連鎖していく様がスムーズです(隣接性、換喩的)。
「言うなれば」と、お固い言葉で言い換えを宣言します。ただ、せっかくかしこまったのに、2つめの擬態語「フラフラ」が登場します。ギャップがありますね。
「胸」から「ハート」へ、少しずつクローズアップしています。
「誰か」とは、誰でしょうか・・・(サビで明らかに)。
「拾ってもらいたい」と下方に目線を誘導してからの、突然の「横断歩道」! 現実の光景が心中に食い込んでいます。考え事をしながら街を進んでいて、目についたものをサッと意識の内に引き入れたみたいです。
口に出して「拾ってもらいたいんだよ おうだんほどう」と言ってみると、「白線」を「ステップ」している様子が浮かびませんか。歌では「ビート刻んで」の「ビ」の音が連続されて、弾んでいます。
最初聴いたとき、「君を迎えに」だと思ったのですが、それだと前の英語詞が文法的に不完全です。正解の歌詞は「ゴートゥーザ・キミ」と「お迎えに」なんですね。「希望を担って」と同じ案件です。聴き手の文法的な処理速度を超えて、運動性言語中枢のような何かは「加速」していきます。
1サビ
冷たかったココロの琴線 溶かしてくれ 僕だけのサンシャイン
ワケないね 簡単なことさ マシな未来を君がくれるから
会いたいだけ 会いたいだけ 会いたいだけ
「琴線」って温度があるのですね、新鮮です。
「サンシャイン」とは何でしょうか。文字通り太陽光線でしょうか。それとも希望のようなものでしょうか。なんとなく察しはつきますが、答えは大サビまで保留しておきます。
ここで「君」というもう一人の登場人物が出てきます。
「マシな未来を君がくれる」という文は、簡単に受け取ってはいけません。「君」のパワーは決して弱くありません。わざと弱く言うことで、逆に強い意味を伝えているのです(緩徐法)。例えるなら、
〈あの人がいればマシになるから〉
〈マシだなんて、失礼でしょ〉
〈・・・会いたい会いたい会いたい!〉
〈いやめっちゃ頼りにしてんじゃん!〉
というような、ツッコミ待ちのボケのような技です。
あるいは、未来に大きく絶望していて、あの「君」ですら「未来」は「マシ」なものにしかできない、ということなのかもしれませんが・・・その場合も、「君」の強大なパワーが前提になります。
「会いたいだけ」は大事なことだからでしょうか、3回言われます(畳語法)。
2A
高速のバスの3列シートにゆらりゆらりと揺られて
夜を抜けて 闇を抜けて
眠い目こすって現れる瞬間が ほら近づいている
「相変わらずそうね」 僕に目をやりながら君は言うんだろうね
笑いながらも 疲れた声で
それでは、その「君」はどんな様子でしょうか。「僕」は想像します。
「高速のバスの三列シート」格助詞「の」でクローズアップしていきます。高速バスに乗っているということは、遠いところにいたようです。夜行バスを使うということは、忙しいか、節約しているか、電車も自家用車も飛行機も使えないか、夜行バスが好きなのだと思われます、どれでしょうか。
この曲3つめの擬態語が現れます。「ゆらりゆらり」「ゆられ」という繰り返しや、並列した描写「夜を抜けて 闇を抜けて 眠い目こすって」が、なんだか「3列シート」のようです。
ここでこの曲の重要ワード「瞬間」が登場します。訓読みすると〈またたくあいだ〉。「揺」「抜」「擦」という「手」描写の後、「眠い目」から急激に「目」の入った描写が増加します(「現」「瞬」「相」「目をやりながら」)。歌は「僕」の内部や表面から離れて、「君」や、「君」から見た「僕」を対象にできる射程を得ました。
「相変わらずそうね」は、「君」自身について言っているのでしょうか、それとも「僕」の様子を見ていっているのでしょうか。
「笑いながらも疲れた声」からは、「君」もまた、なにか問題をもったままここに来ていることが示唆されています。それでも「笑」っているのは、救いですね。
2サビ
ナンギなんだ 人生ってヤツは ひとりきりでは手に負えないね
かったりーな やっかいな問題 この手に抱えれば抱えるほど
会いたいだけ 会いたいだけ 会いたいだけ
話はまた「手」の距離感にもどります。「ひとりきりでは手に負えないね」〈でも二人ならごにょごにょごにょ〉というのがこの歌のテーマですね。
「かったりーな」、大きい声では言えませんが、ホントソレです(ここを共感できるか否かで、この歌の評価が真っ二つに分かれそうです)。
「会いたいだけ」はやっぱり大事なことなので、省略せずに言われています。
B
ああ 永遠とは瞬間の連続 常に目の前にあるなら
一瞬を 一瞬を 君と重ねたい
なんて思ったこの一瞬とか いろんな一瞬を
そこからまた「目」のフィールドへ。
「ああ」という感嘆詞から始まります。改まった感じで「永遠とは瞬間の連続」という定義がなされます。「常に目の前にあるなら」というのは条件で、状況を限定することで妥当性を引き上げています。
「重ねたい」というのは「一瞬」を擬物化して、「手」で扱えるようにしていると考えられます。
ここで急に(!)「なんて思った」と、見えない鍵括弧が閉じられます(間接話法)。「なんて思った」と、心の中を俯瞰しながら「この一瞬とか」というように一歩引いています。「いろんな一瞬を」ともなると、これは言ってみれば無限後退です。対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを対象化することを・・・何度もなんども対象化することによって、対象化もまた一つの〈行為〉であるという事実が浮かび上がってきます。バックステップを繰り返して世界を踏破しようという作戦です。びっくり!
大サビ
冷たかったココロの琴線 溶かしてくれ 僕だけのサンシャイン
ワケないね 簡単なことさ 君が太陽だと言える!
ナンギなんだ 人生ってヤツは ひとりきりでは手に負えないね
かったりーな なんて思う時 マシな未来を君がくれるから
会いたいだけ 会いたいだけ 会いたいだけ
1サビと2サビが合成されています。 ところが、一つだけ新しい文章があります。「君が太陽だといえる!」エクスクラメーションマーク付きです。「サンシャイン」とは何かという1番サビでの問いは、ここで明快な答えを得ます。
「君」=「太陽」という比喩が成立した瞬間、「太陽」に紐づけられたあらゆる関係性が「僕」を捉え始めます。 歌い出しを思い出してください。「東京の上空に日の光」でした。「日の光」に「君」代入すると、「東京」は「僕」になります。つまり≪6AM≫とは、
〈東京のような僕が太陽のような君を想う〉 という曲です。
さらに言ってしまえば、
〈東京である僕が太陽である君を想う〉 という曲です。
ところで、喩(たと)えるものと喩えられるものは、常に逆転する契機を孕(はら)んでいます。ともなると、
〈僕のような東京が、君のような太陽を想う〉
という幻想的で危うい光景が立ち上がることになります(擬人化:東京が歌う)。
おわりのまえに
はい!ここまでお読みいただきありがとうございます。
テクストの分析にはいろいろな作戦があります。他の作品と比較したり、作者の人となりについて調べたり、社会的・文化的背景を参照したり、音との関わりについて述べたり・・・今回はできるだけ〈詞そのもの〉から、どのくらいの情報を掴みだせるか、どのくらいの奥行きを見晴らすことができるか、挑戦してみました。
歌詞の分析を記事として書くのは初めてです。堂島さんの楽曲における擬物化や換喩(隣接性)や、言葉遣いの切り替えの早さについては、以前から知っていたつもりでしたが、今回、その豊かさを改めて思い知りました。
言葉の部品となった手や目によって絶妙に距離感をコントロールするという技は、私のなかでも新発見です。
地政学的なテーマについては、いつかまた日を改めて書ければいいな、と思っています。
実はまだ、堂島さんの全作品に耳を通せていませんので(!)、もう少し聴き進むことができたなら、書くことができたなら嬉しいです。
はてさて、比喩については、徐々にかつ整合性をもって浮かび上がってきていることが確認できました。
それでは、その〈比喩が消失する〉最後のセクションを見てみましょう。
エンディング
午前6時に高架下渡り 誰もいないバスターミナル
コーヒーの缶を握っては君の訪れを待つ
「6AM」が日本語で登場します。タイトルの出現から、この歌の緊張(テンション)が密集しているということが予想できます。
1Aで「何が起きるのでしょうね」と書きましたが、なんと、イベントとしては何も起きていなかったことが明らかになります。その前段階のソワソワした気持ちが作った歌なのですね。
ここでは、事実だけを淡々と記しています。あれほど鮮やかだった比喩が、跡形もなく消え去っています。リアルですね。
ところで、喩えるものと喩えられるものが同じ空間に現れるとき、比喩は消滅します。それは、
〈君がバスから降りて、僕と一緒に、東京の上で、太陽の下で会う〉
瞬間です。「太陽」は「君」であることをやめ、「東京」は「僕」であることをやめ、舞台装置に収斂していきます。同時に、「君」は「太陽」ではなくなり、「僕」は「東京」ではなくなり、ただの人間が2人、対面します。
歌の終息とともに、ほんものの「人生」が呼吸を始めます。
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