
こんにちは!AJP編集部のわくです。
2020年10月に発足したアカペラの歴史をまとめるプロジェクト「Harmory-History(略してハモヒス)」ですが、先日、RAG FAIRの元メンバーでありアカペラ内外問わず幅広く活躍されている「ボイパのおっくん」こと奥村政佳さんに記念すべき最初のインタビューをしてきました!
そのインタビューの内容を、4回に分けてお送りしていきます。

第1回目の本記事では奥村さんがアカペラに出会い、ボイパを始めるまでのお話をご紹介いたします。
目次
奥村政佳(おっくん)さんの紹介

高校生のとき、当時の史上最年少で気象予報士の資格を取得し、その後、筑波大学に入学。
大学でアカペラ活動を始め、Japan A cappella Movement(JAM)を立ち上げた人物で、アカペラグループ「RAG FAIR」の元メンバーでもある。現在は保育士・防災士など複数の肩書きを持ち、幅広く活躍されている。(Twitter)
インタビュアー紹介

筑波大学アカペラサークルDoo-Wop所属の大学2年生。
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Vocal Asia日本支部代表。アカペラ界一のムーミンマニア(自称)。
Twitter / Vocal Asia

群馬のアカペラー兼イベンター兼アカペラCD収集家として活動する社会人。
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初めての「アカペラ」はコーラスのアンサンブル

早速インタビューの内容に入らせていただこうと思います!
先日「JAM」のインタビューを受けていらしたと思うのですが…。

そうそうそう!

そこで結構大学生時代の話をされていたと思うので、そちらと絡めていけたらと思っています。
どうぞよろしくお願いします!

はい!お願いします!

確か、大学入学前の高校生時代「Take 6」に熱中されていたという話があったと思うのですが、初めてアカペラに触れられたきっかけは「Take 6」がだったんですか?

触れたって意味ではえっとね~、どっちが先だったかな・・・
「Take 6」のスバルのCM?あれ何年やろ。

はいはい。どうだろう…。
(SINさんがラックからCDを取り出して見せる)


発売日いつ?

これが…94年ですね。

多分それがテレビのCMで流れとって、すごく衝撃的で、「同じ歌なのになんやこれ」みたいな衝撃はあったのは今でも鮮明に覚えています。

CMで流れていたんですね!

それか、高校3年生の時の経験がきっかけですかね。学園祭とは別に「音祭」って言う音楽会行事があったんですよ。
僕が音楽選択やったんで、同じように音楽選択の子たちの有志でコーラスのアンサンブルをやろうって言って、ちょっとクラシック寄りやったけど7人組でいわゆる「アカペラ」を発表したのが最初やったかも…。

ちなみに音楽祭で歌ったときの楽譜ってどうやって準備されてたんですか?

多分クラシックの曲やったから楽譜があってんやろなあ。

既存の楽譜が?

そうそう。
バンド名は「受験君と受験さん」でした。

(笑笑笑)

なんのひねりもない。

その時はベースとか、ボイスパーカッションといったパートはなかったんですか?

ベースやボイパはなかったね。僕は声変わり前だったからとにかく上のパートに行ってました。

その高校生の頃にボイパをやろうという人はいなかったんですか?

全然全然、そんな。だってボイパなんていわゆる人気はなかったわけですよ。
バンドで言ったらドラムスやん。ドラムスはそんな目立たへんもん。リードボーカルが目立って、ギターが目立って、ベースも目立って。

(笑笑笑)

そんなもんそんなもん。だからそれを積極的にやるっていうのは、そんなになかったよね。
「Take6」との出会いはあったが「アカペラをやろう」とは思っていなかった

音楽祭でアカペラを初めて披露して、そこから「Take 6」をよく聴くようになったんですか?

意識はしたよね、はじめてね。

そうなんですね、当時はやはり8センチのCDで聴かれてたんですか?

そうそう。CMでアーティスト名が右下にちっちゃく出るやん。「Take 6」って。
で、それを覚えとって、多分高校の時にTSUTAYAで「Take 6」のCDを1回借りてるはず。

当時はアカペラをやろうっていう意思はありましたか?

全然ない。出来るとおもってへんもん。
ハモネプで日本人がボイパをやってるのを見て、「わあ!出来るんや!」ってみんなボイパを始めたけども、それまでは「何か自分には出来ひんものをやってはるのやろうな」みたいな感じ。

結構、雲の上の存在というか

そうそう。気象予報士なだけにね!

(笑笑笑)
「サークルなんて」と思っていた大学入学直後、転機が訪れる

俺のベクトルは完全に予報士だから、その頃は。
音祭でアカペラやってる時と全く同じタイミングで予報士受かって「わっしょい!!」なってる時やから。

ほんと、すごいですよね!

当時は最年少ですよね。

新聞とかテレビに出てる時期でした。アカペラはなんか一瞬パッって興味は行ったけど、もう完全にお天気の方でした。

じゃあ、大学に行って、普通に気象予報士の勉強をしようと思っていたんですね。

そうよ~。全くもってそう。
それでまあ、予報士の資格があったから筑波大学の推薦が来て、そのまま入学して。
で、まだあんのかな…筑波大学新聞って。

ありますあります。

入学した時は「最年少気象予報士来る」って筑波大学新聞の取材が来て、俺はもうお天気の勉強する気満々やからさ。
取材に対して「気象1本で打ち込みます!」と宣言をして。

(笑笑笑)

その次の日に春の学祭「やどかり祭」があって、Doo-Wop(筑波大学のアカペラサークル)の先輩達が歌ってて。前の日の発言、即撤回よね!

(笑笑笑)

うぉい!!と。ほんとほんと(笑)

すごいなあ…。

「大学入ってサークル活動する奴らなんて信じられへんわ」って言ってた次の日に、Doo-Wopのステージを見て「俺はこれや!」と。

おお~!

一目惚れでしたねえ。

具体的にどういう所に惹かれたんですか?

雲の上の存在だったアカペラを、大学生がやってたことに衝撃を感じたよね。うおお!と。

それで、もう、アカペラやるぞ!ってなったと。

やるぞ!というか、とにかく何か首を突っ込みたいっていう気持ちで、先輩に連絡して。
さっそくDoo-Wopの練習に行ってみました。
女の子が凄い多くて、先輩たちが、曲ごとにグループを分けるのに苦労してたなぁ、っていう印象が残ってる。

先輩への連絡はどうやっていたんですか?

当然携帯はないわけで。宿舎電話っていうか。
当時ね、筑波大は1年生2年生はほぼ寮だったから。4000人ぐらい寮に住んでるわけですよ。

えええ、そんなに!

だって電車がないねんもん。まわりに。寮長寮母さんもおらへんからさ、本当にもう長屋なわけですよ。学生たちが青春を謳歌する、自由な青春の解放区。

(笑笑笑)

勝手に部屋でバー開いてる奴おったし。一杯百円とって。ある意味無茶苦茶ですよ、当時は(笑)

今からは考えられない…。

12時を過ぎてしまうと先輩の風呂借りに行く、みたいなさ。そんな繫がりがあるわけよ。

今より繋がりは深いですよね。

ふっかいよ~~~。
まあ、そんな感じでサークルに入ったのがDoo-Wopとの出会いだったよね。
最初からボイパをやっていたわけではなかった

確か、アカペラを始めた頃はボイパはやられていなかったんですよね?

ないないない。1年生の学祭なんかはいわゆるデビュー戦であって、歌詞を覚えるとか、人前で歌うとか、そういう事があくまでも第一のハードルというか。

なるほど。

人前でうまく歌えずに1回目のステージの後ガン泣きっていうね。

(笑笑笑)

ヘタレてました(笑)
ボイパを始めたきっかけは突然の声変わり

大学に入って、最初は歌から始めてね。
声変わり前やったから男子の中では結構上の方が出たりとか、声色が特徴的ではあったからガンガン歌っていて、その中で1年生の冬にポンッって代表の役割を渡されたわけ。そこでサークルを仕切るっていうことを1年生の12月ぐらいからやりました。

早いですよね。

早いよ~~。で、初の新歓ですよ。2年生の「やどかり祭」。
いきなり2年生で新歓を企画せなあかんみたいなことになった時ぐらいに、代表が声変わりっていう。

突如の。

あれ?あれ?なんかおかしいな?みたいな。で、いろんなバンドがあったんだけども、1つ、「Sixty Minute Man」っていう…

はいはいはい、「Rockapella」の曲ですね。


ベースがソロやってる。

「この曲なら4ビートで入れるやろ」みたいな感じで無理やりボイパをやりました。
全然つまらんかったよ。ずっと「ツーツッツ、ツーツッツ」言ってるだけだから。
で、それが多分ボイパのデビュー戦だと思います。

お~~~!

声変わりが高校時代とかに終わっていたら、もしかすると奥村さんがボイパと出会う事はなかったかもしれないですね。
最後に
今回は、奥村さんがアカペラを知ったきっかけやアカペラを始めた経緯など、ボイパを始めるまでのお話でした。
次回は奥村さんがボイパを始めてからハモネプに出場するまでのお話です。
どうぞお楽しみに!
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