こんにちは!AJP編集部のわくです。
2020年10月に発足したアカペラの歴史をまとめるプロジェクト「Harmory-History(略してハモヒス)」ですが、先日、RAG FAIRの元メンバーでありアカペラ内外問わず幅広く活躍されている「ボイパのおっくん」こと奥村政佳さんに記念すべき最初のインタビューをしてきました!
そのインタビューの内容を、4回に分けてお送りしていきます。
第2回の本記事では奥村さんがボイパを始め、「ハモネプ」に出会うまでのお話をご紹介いたします。
本記事は第1回の記事の続きとなっておりますので、まだお読みでない方はそちらを先にご覧ください。
目次
「西海岸アカペラサミット」で、海外のボイパプレイヤーに刺激を受ける
ボイパを始めた97年に、アメリカで開催されたアカペラサミットに行ったんですよ。
多分、『A CAPPELLA MAGAZINE』に載っている「西海岸アカペラサミット」じゃないかな。
それだ!
BBS(インターネット上の掲示板)にそのイベントの紹介があって。
その紹介を見て、サミットに行かれたんですか?
そうそう。
たまたま大学で、勉学の成績が優秀でかつ課外活動も頑張ってる人に向けた奨学金をもらえて、そのお金を握りしめて「アカペラサミットがあるぞ!よっしゃ、行こう!」って思い立ちました。
笑笑笑
それはすごい。
それでアカペラサミットを見に行ったら、ボイパのクラスがあったわけよ。
講師は何という方だったんですか?
えっとね、「The House Jacks」のAndrew Chaikinだね。
その時はちゃんと知らんから、「なんかRockapellaみたいな奴がおんのや」と思って。
彼がマイクを持って「じゃあ8ビートやるぜ!」って言って、その場で全員が8ビート打ち始めるわけ。
彼は会場を歩き回って、「君いいね」みたいに声をかけて、参加者を壇上に引っ張っていって、6人ぐらいで8ビートを刻む、みたいな流れでした。
楽しそうですね!
俺も一生懸命やってて、何回目かに「お!君いいね」って壇上に連れて行かれて、実演しました。
多分周りはみんな中学生とか高校生。
そのころは大学生ですよね?
そうやね。とにかく今42歳でこの顔やからさ、その頃なんてもっとド童顔なわけよ。
更に日本人やからさ、壇上に上げられたけど、完全に小学生みたいな扱いをされましたね。
で、終わってから「おお、ぐっしょーぶ!」って俺に言ったやつも多分中学生とか。
「一応大学生やでー!」って思っていました。
笑笑笑
小樽クレイジーシンフォニア(OCS)に参加
とにかく色々なアカペライベントに足を運んでネットワークを作っていた時期で。「小樽クレイジーシンフォニア(OCS)」っていうイベントが小樽であった時も、そこまでヒッチハイクで行って。
ヒッチハイク!?
そう。当時の掲示板に記録が残ってんで。
OCSいよいよですね。
BOARD (coocan.jp)より引用
今朝、おっくん(奥村@つくば大Doo-Wop)が
東京をヒッチハイクで立ったはずです。
元々、俺は見に行くだけの予定だったけど、やっぱりステージを見たらさ、自分もやりたいと思って。
紙に「俺も入れて!」って書いて見せて、無理やり入った記憶がある。
笑笑笑
この時代にアカペライベントをやっているとは…小樽、凄いですね。
多分小樽でやったのは最初で最後やったかな。
そこで早稲田大学Street Corner Symphony(SCS)の人と初めて出会って、後にSCSの幹事長になる人が「是非うちのライブにゲストで来てくれませんか」って誘ってくれて。それで俺がSCSと絡むきっかけになったのかな。
その頃からは本当に大学にも行かないようになってきたよね。
だってDoo-Wopで5バンド組んでSCSで3バンド組んで…もう無理無理。
すげー!
スケジュール帳に「午前アカペラ、午後アカペラ、夜アカペラ、深夜アカペラ」みたいな感じやったもん。笑
すごい…。
のどが痛くなりませんでしたか?
うん、ほぼボイパやったからね。
でもその時に「楽譜を覚えない」という技を身につけたよね。曲の展開を覚えておくみたいな。
セッションの感覚ですよね。
そこの経験とか引き出しが、後々の音楽人生にめちゃくちゃ影響を与えたかも。
6大学のサークル合同でアカペライベントを開催
先ほどチラッと掲示板の話がありましたが、イベントなどの連絡は全部掲示板に来ていたんですか?
そうやね。
掲示板以外だと、イベントに顔を出して、そこで出会った人同士で情報交換したり誘い合ったりして情報収集していたんちゃうかな。
なるほど。
それで、元々「学生のインカレイベントをやりたい」って思ってたんだけど、そういったイベントを通じて、色々な大学サークルに顔見知りができるようになって、「イベントをやってみよう」と思い始めたのがその頃よね。
そこで98年に「アカペラメジャーズ」を企画されたんですね。
そうそう。
◆ アカペラメジャーズ(1998年)
JAM HISTORYより引用
関東において各々個別に活動してきた6大学アカペラサークルが始めて合同ライブイベントを企画 東京大学駒場祭において、1時間のステージ、6時間のストリートライブイベントを展開。
当時の「6大学」がどこだったか、覚えていますか?
覚えてるよ~。東大、筑波大、早稲田大、慶応大、創価大、埼玉大の6大学かな。
どのようなイベントだったんですか?
各サークルのスター同士で組んだインカレバンドで「Rockapella」の「Lift Up」を歌って、あとは割り当てられた時間で各サークルが自由に発表するていう感じだったかな。
Japan A cappella Movement(JAM)を立ち上げる
で、98年に「アカペラメジャーズ」をやった後、それを拡大する形で、より一般の人が集まる場所で全世代向けのイベントを行いたいと思って開催したのが「Japan A cappella Movement(JAM)」やね。
そのような想いがあったんですね。
そうそう。
それまでのライブイベントはまあまあクローズドだったわけですよ。
今も開催されている「アカペラ公園」というイベントも、当時は井の頭公園でやってはいたけれども、一般の人に向けてパフォーマンスするって感じじゃなかったしね。
いわゆる「アカペラー同士のオフ会」に近かったというか。
それまでのイベントはクローズドだった中で、「JAM」は一般の人に見せるという目的で開催されたんですね。
その意味では、商業用施設で開催するっていう条件は外せなかった気がするよね。
今でも「JAM」は商業用施設で開催されてますもんね。
それで、ちょうど第1回の会場になったお台場のデックスさんに下見に行った時、当時のRAG FAIRのメンバーとたまたま会って、道ばたで一緒にセッションしたのが多分RAG FAIR加入のきっかけ。
そこからRAG FAIR加入の話につながるんですね!
なんだか、点と点が線でつながっていくような感覚です。
アカペラを諦めそうになった矢先、「ハモネプ」から連絡が来る
そんな感じで「JAM」を作り、RAG FAIRの活動もありつつ、いろんな音楽イベントに顔突っ込んでみたりとかして。
怪しげな音楽プロデューサーについていこうとしたり。
あの頃は怪しげな音楽プロデューサーが結構いましたよね。
そんな感じだったので、いっそ大学は休学しようと思いました。
でも休学は親からすればもちろん大反対なわけですよ。
「お前は気象庁に入るといって筑波大に行ったんやないか」と。
まあね、そのつもりではあったよ。
Doo-Wopに入る前の日まではね。笑(第一回記事参照)
結果、98年は年間3単位しかもらえてなかったわけよ。
大学に行かなかったからですね。笑
学費を満額払ってもらって年間3単位しか無くてさ、しかも下宿代も払ってもらって…そりゃ怒るわな。
で、2回目の2年生をやってる時に、「ボイスパーカッションで食っていけるんではないか」と思って。
「この可能性にかけてみたい」と、実家に帰って親に掛け合うんやけど、「頭大丈夫か」と頭に手を当てられ「お熱はないな」と。
笑笑笑
結局、大喧嘩をして家を出て行って、もちろん両親の支援もないわけだから、家賃2万3千円の家を探して、そこに暮らし始めて。
でも1年間はうだつが上がらず、一方、周りの同年代にはプロになる子もいて。
「諦めようかな」って考えていたときに、「ハモネプ」から電話があって。
どのような理由で連絡が来たんですか?
「JAM」を作ったりしてたから「知り合いがいっぱいいるんじゃないか」と思われたみたいで、「出演者を紹介してほしい」という理由でした。
そこから「ハモネプ」に繋がっていくんですね。
インタビューしたいことはまだまだあるので、後日また続きを伺いたいと思います!
最後に
今回は、奥村さんがボイパを始めてから「ハモネプ」に出会うまでのお話でした。
次回もどうぞお楽しみに!
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